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――進学した高校の陸上部は、結構な強豪だったんですか。

 

 そうですね。バリカンが部室に置いてあって、部員は坊主必須みたいな感じでした。だから青春をそれなりに陸上に捧げる感じだったし、そういう人が周りにいることが安心でもありました。

 で、代によって雰囲気が変わるんですよ。自分たちの上の代には、わりかしふざける人たちが多かったので。なんか芸人を目指しているような人もいたし(笑)。で、陸上部で一発芸をやらなければならなくなって、実際にやってみたら楽しかったことが、今演劇をやるきっかけになっている気がします。

 

――そういえば『弟兄』には高校時代、仲のいい友達と「羞恥心」ならぬ「悲愴感」という出しものをやるくだりがありました。

 

 「『悲愴感』というトリオをお前らでやったら、絶対面白いよ」と周りから言われて、確かにそうだと思って「これは張り切ってできるぞ」と感じだったんです。そのときは「誰かが笑えばいい」みたいな思考回路になっていたし。

 

――そういう思考回路になるのには、なにかきっかけが?

 

 中学生の頃にパソコンが流行り始めて、日記みたいなものをネットに書き込んで、いじめの相談したりもしていたんです。で、復讐代行みたいなサイトにメールを送ったら大量に迷惑メールが来ちゃったりして(笑)。足が速くなっていじめから抜け出した後も、ムカつくことがあると2ちゃんに書き込んだり、2ちゃんねらーみたいな状態になってたんですよ。

 それで高校に入ってからは、結婚した女性ばかりのスレッドを見るのが好きになって。夫を本気で殺そうとしたとか、姑が飲む麦茶に雑巾を絞った水を入れたとか、そういうのを読むのが面白かったし、自分の知らない世界が見えてきて。そこで「自分も既婚女性のふりをして書き込んだら面白いんじゃないか?」と思ってやってみたら、すごく楽しくて。

 そこから自然と人を笑わせようみたいな感情が芽生えて、それが高校1年生で盛り上げ隊長になることにつながったと思います。

 

――今は事実をもとに作品を作られることが多いですけど、既婚女性のふりをした書き込みは完全に創作だったんですか。

 

 基本フィクションでしたけど……、たとえば祖母が言う嫌味と別の事柄を組み合わせて作ったりはしていましたね。僕の父は魚肉ソーセージ好きで、買ってきてもすぐに食べてなくなるんです。だから祖母が父のことを「ほんとソーセージバカね」とか言っていて。

 で、男性のことをちんちんからの連想で、ソーセージにたとえるということを知って。それを組み合わせて「自分のソーセージでも食ってろよ」という悪口にしたり、そうやってお話を作ってネットに流してました。

 

――その、もとになるなにかをアレンジしていく感じは、今にもつながるような……。

 

 確かにそうですね。なにかをつなげたら新しいものが出てきた……みたいなところは、今のゆうめいの作風に近いんじゃないかなと思います。

 

――その書き込みは、高校で陸上に打ち込んだ時期も続けていた?

 

 かなりやっていました。まとめサイトに自分の創作が載ると、もう賞をもらうとかより断然うれしいんですよ。またそういうことをやっていると、自然とネタが集まってくるんですよね。

 あと、陸上の合宿とかで疲れて余裕がなくなると、みんながイライラしてくるんです。だからそういうときは、空気を回復させるために変なことを言う、みたいなこともしていました。

 トゲトゲするのが嫌だったんです。「日曜日の自分の家みたいなトゲトゲを、なんでまたここで味わわなきゃならないんだ」みたいな思いがたぶんあって。とにかくトゲトゲを回避したい気持ちはすごく強いです。

 

――そうだったんですね。そして話を戻しますが、いっしょに「悲愴感」の出しものをした友人とは親友といえるような間柄だったんですよね。

 

 彼とはお互いの話のテンションが合うところがあったんですね。「今まで大変なことばかりの中生きてきた」と言って、それを態度でも示すんですけど、そこにはちょっと笑いが含まれているニュアンスもあって。ちょっと自虐的な笑いにツッコんでいくうちに、だんだんコミュニケーションをするようになって。

 そこから彼にアニメを教えてもらったり……あと、彼がすごくスケベだったんですよ。彼のおじさんか誰かがエロ本を買って来てくれる人で、彼の家に遊びに行くとそういうものが大量にあった。僕はそういうものに触れる機会があまりがなかったから「すごい! なんだこれ!?」みたいな感じになっていたら、彼に「いくらでもあるから、持っていっていいけど」みたいな感じで、エロ本マウントみたいなのをとられて(笑)。

 あと彼はゲームもたくさん持っていたんですけど、自分は親から「ゲームはダメ」と言われていたから、そんなにやったこともなくて。自分の知らないものをたくさん持っている人でした。でも集団の中にいるとすごく静かになるんですよ。その感覚はすごくわかるというか。そこから2人で過ごす時間が増えていきました。

 

――『弟兄』では、「悲愴感」をやって周りを笑わせようとする主人公に対して、友人は泣きながら「自分は芸人じゃない。こんなことはしなくなかった」と言いますが。

 

 そこは彼と180度違うところだったと思います。僕としては、最初は彼がなにが嫌なのかわからなくて。実際に「あれは(いじめではなく、周りを笑わせるためだから)目的が違くない?」みたいなことを話したし、「目的が変わったほうが幸せになれる気もするんだけど」みたいな話もして。あと劇中の台詞にもあるように「そんなにつらいわけではないでしょう」みたいなことを言っちゃっていたんですよね。そこはもう完全に相手のことをわかっていない自分がいて。

 それまでにも自分と人との違いを感じることはありましたが、そこで自分の中で決定的に自分と人とでは考えていることが違うこと、自分が楽しいと思うことでも楽しいと思わない人もいることがすごく明確になったのだと思います。

 

――総括すると高校時代は楽しかったですか?

 

 高校はめちゃくちゃ楽しかった。小中学校の頃を全部切り捨てたいって思うくらい。そして地元のことがより嫌いになった瞬間でした。春日部で生きるのが向いてないんだなってちゃんとわかったから。

 

――『俺』にも、春日部という地域に対する池田さんの思いが反映された部分があると思うんですが、やはり地縁や相互監視的な感じとかがあって、窮屈だったという感じなんでしょうか。

 

 そういう部分はありましたね。中学のときはそれこそL’Arc~en~Cielを聴いとかないと絶対ダメ! みたいな感じもあったし、誰かが嘘で言った噂もすぐ周囲に広まって、それが3ヵ月くらい続く感じでした。

 噂を流すグループみたいなのがいたんですよね。前略プロフィール(※04年に始まったウェブサイト作成サービス。当時の学生の間でSNS的な交流の場として使われることが多かった。16年にサービス終了)とか、裏掲示板とかが流行っていた頃で。

 

――田舎とネットのよくないハイブリッドというか。

 

 噂が広がると、学校でのみんなの態度はめちゃくちゃ変わるし、近所付き合いに対しても萎縮するようになりましたね。誰かが噂話をしているのを聞くと全部陰口に聞こえてきて、嫌だなと思っていました。

 

――池田さんの噂が、お母さんの耳に入ったりすると……?

 

 非常にめんどくさかったです。いい結果を残して、いい話が出回ったほうが、自分の地位が上るみたいな感覚はすごくあって。だからずっと気が抜けない感じではありました。

 

――だから高校でも、陸上で実績を積み重ねたんですね。

 

 頑張って県大会や関東大会にも行っていい調子だったんですけど、大きな大会でケニアからの外国人留学生にボコボコにされたんです(笑)。もう1周遅れとかにされて負けて。

 必死で走りながら、優勝したケニア人がインタビューを受けているのを横目で見たら、「陸上はもうダメなんじゃないか。なんでこんなつらいことをやり続けなきゃいけないんだ……。そういえば俺、別に陸上が好きでやってるわけじゃなかったよな?」と思ったんですよね。

 

「美大に行きたいと切り出したときは、めちゃくちゃ怖かったです」

 

――それで陸上をやめ、美大に進学されたわけですけど、美術のほうへ進んだのにはどういう経緯があったんでしょう。

 

 美術はずっとやりたいものではあったんです。高校に進学するときも、美術系の高校が埼玉にあるので、そこに行きたいとは親に話したんですけど、普通科じゃないと将来、絶対就職で困るぞと言われて。まず普通科に進学して、とりあえず将来の選択肢を増やしておいたほうがいい、ということだったんだと思います。

 大学で美術のほうへ進もうと思ったのは、自分の好きなことなら陸上みたいに周りとつながれるのでは、という気持ちがあったし、もうやめようと思いつつも、高校3年の12月ぐらいまでは陸上競技をやっていたこともあって。

 だからいいとこ取りで、美大に進学してそこで箱根駅伝に出られたら面白いよな、とも思っていました(笑)。

 

――そういう野望込みでの進学だったんですね。昔から絵とかは描いたりされていたんですか。

 

 小学生ぐらいから立体を作っていました。レゴブロックでなにか作ったり、紙とかプラバンとか、中学生の頃は模型のなにかを熱で溶かして別のものを作ったり。それをランキング形式のサイトで投稿して、知らない人からコメントをもらうのがうれしくてずっと続けていました。

 学校ではいじめられているし、全然人とも話せなかったけど、パソコンだったら隠れていじれたので。だから、自分にとってはかなり大事な場所でしたね。当時、造形を投稿していたのが「fg」というサイトだったんですけど、今でもスマホでなにかを検索するとき、手が勝手にそこを検索しそうになる瞬間があります。Twitterをすぐ見ちゃうみたいな感じでハマっていました。

 

――リアルの自分抜きで、作品を観てくれる人がいる場所というか。

 

 そういう部分はありました。直接、顔を見なくてもつながれるところにすごく価値があると思っていたし、こういうつながり方をすればいいんじゃないかな、という気持ちがあって。

 

――そういえば別のインタビューで、世の中の人がみんな、クローンのように同じになったら、みたいなことをおっしゃっていました。

 

 言っていましたね。それって匿名掲示板とかの影響なんですかね。性別とか考え方とか身体とかが全部同じだったら、なんて楽なんだろうということは考えていたと思います。ただ「現実はそうはいかねえだろ」とも思っていて。じゃあどうしようかなって感じになったときに、なにか別の方法を考えるか、という方向に思考が向かったんだと思います。

 

――陸上をやめて、美術のほうに進んだ経緯はわかったのですが、そもそも美大は誰もが入ろうとして入れるわけではないと思うんです。しかも池田さんがそちらに進むためには、お母さんに納得してもらわないといけなかったわけですよね。

 

 美大に行きたいと母に切り出したときは、めちゃくちゃ怖かったです。だから最初は「教育系の美術専攻とかを狙おうとしていた」と嘘をついて。それなら認めてもらえると思ったんですね。そうしたら「先生になりたいのか、それとも美術やりたいのか、どっちなのか」と言われたので「どちらかというと美術」と答えたら、「実は私もさ……」と言って、押し入れからよくわからない絵を引っ張り出してきて。

 

――えっ?

 

 そこから母が公務員になる前、美術予備校に通っていて、本当はこういうことがやりたかったという話を聞くことになって、進路相談はそこで止まっちゃったんですけど(笑)。美大についても自分よりすごくくわしかったんですよ。「私も行きたいんだけどな」ぐらいのテンションで話していて。だから学費の安い美大を探して受けてみようとなったときは、母も「別にいいんじゃないの」という感じでした。

 

――思いがけない反応ですね。

 

 すごく記憶に残っていることがあって……、僕は多摩美術大学に進学したんですけど、構内に図書館があるんです。で、高校2年の後半に多摩美のパンフレットを取り寄せたとき、届いたパンフレットを母親が勝手に開けて読んで「多摩美の図書館は、子供が入ったら親も行けるんだね」とか言っていたんですよね(笑)。僕から美大の話が出る前から美大をかなり調べていたと言ってました。

 これはもう自分と母が、奇跡的に一致したところなんじゃないかと思います。ずっと表現することがやりたかったけど、ほかにやる人もいなくて、自分は今の公務員の仕事を続けるしかないことに悶々としていたんだなって。

 

――お母さんと自分に一致するところがあって、池田さんはうれしかったりしたんでしょうか。

 

 うれしいというより混乱していましたね。あと、母親が見せてきた絵がまったくわけがわからなくて、なんて答えればいいのかわからなかったということもあるし(笑)。

 

――(笑)。それでお母さんは、どんな話を池田さんにされたんですか。

 

 おじいちゃんが画家をしていたことや、美大に進学して先生になれる手段があるという話をしていましたね。

 あと、母親が仕事で図書館を作ろうとしていたんですけど、その図書館に美大の作品を入れたほうが地域が盛り上がるんじゃないか、みたいなことが議題に上っていたらしくて。ちょうどそれを進めていた時期だったので、その話をされましたね。それを聞いて母に対して「そういう仕事をしてるんだ」という印象が生まれたし、本当にいろんなことが偶然重なって美大に行けたんだと思います。

 

――じゃあ、陸上をなぜやめるのかという理由は、別段説明しなくて済んだというか。

 

 ただ、大学卒業後は働くことが大前提として向こうにあったから、そのときは墓石職人になると言っていました。それなら需要が固定されているので、そこを全面に押しました(笑)。

 

――(笑)。子供から墓石職人になるから美大に進学すると言われるのは、特殊なシチュエーションのようにも思うのですが、それでお母さんは納得されましたか。

 

 納得していましたね。あとはやれるところまでやるということと、進学するならそれなりにブランドイメージのあるところにいかないとキャリアが成り立たないから、より高みを目指しなさい、ということを言われました。

 

――そこから美術予備校に通うことになったと。

 

 いや、実は予備校には高校2年の後半から、親に黙って体験学習みたいなのに行っていたんです。そこに何回か通ううちに「そろそろ授業料を払わないとダメだよ」と言われて、観念して親にお願いして。

 

――とはいっても、美大にはなかなか簡単には入れないイメージがあります。でも池田さんは現役で合格されているんですよね。

 

 でも補欠合格で、たぶん一番最後の補欠番号でしたから、本当にギリギリで合格できたんだと思います。

 

(つづく)

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